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歴史

源義経はチンギスハンってホント?その実態は?

2016/08/26

源義経をご存じでしょうか?

大河ドラマにも登場している、
日本人が大好きな歴史上の偉人ですね。

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何しろ、百戦百勝、戦っては勝ち、戦っては勝ち、
ついには奢れる平氏を亡ぼす立役者となった、
戦の天才とも言われる、源義経

しかもその戦い方は、奇想天外
誰も思いつかなかった戦法ばかりで、
敵どころか味方をも驚かしました。

たとえば一ノ谷の戦いでは、誰も降りることなど
想像もしなかった急峻な崖を、手勢に命令して
馬で駆けくだり、少ない軍勢で平氏を奇襲し、
敗走させました。

ふつう、戦は大軍で戦ったほうが有利ですが、
義経の場合、少ない軍勢でもって、
大軍を撃破する戦い方が得意でした。

まさに、軍神といっていいほどの戦巧者でした。


平氏を討ち滅ぼしたあと、当時でもその人気は
凄まじいものがありました。

有史はじまって以来のヒーローとも言われています。

その人気は、兄の源頼朝をしのぐほどで、
頼朝は、弟のあまりの人気ぶりを妬んで、
後に起こる、弟と対立する計画を、
実行に移したのではないかと、言われています。

ですが、当の義経は、兄の嫉妬に気づきません。
なぜなら、全く逆のことを考えていて、
戦のみに全力を注いでいたのです。

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平氏を滅ぼしたあとも、自分は、兄の為に
命をかけて戦った。
そして誰にもできない大活躍をした。

きっと兄は、自分のことを褒めてくれるだろう、
と胸を張って、兄の頼朝の元に帰ろうとします。

そう思っていることが、なおさら義経の悲劇性
高めているわけですが、案に相違して、
そのとき何故か兄は面会してくれません。

義経は、何かの誤解だと申し開きをして、
兄に面会を求め(手紙も送ります)ますが、
ついに兄は義経に面会を許してくれませんでした。

それに怒った義経は(誰でも怒りますよね)、
兄の悪口をポロッと漏らしてしまいます。

それを周囲の人間が頼朝に伝え、紆余曲折の後、
ついに頼朝は義経を討ち取るべく、討伐隊を派遣します。

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それを撃退する義経でしたが、頼朝の勢力は大きく
(もとはと言えば、義経の活躍のおかげで
勢力を拡大できたわけですが)、
義経の味方となる人物は、次々と討たれていきます。

ついに京都にいることができなくなった義経は、
奥州の藤原秀衡(ひでひら)を頼って落ち延びます。

関所を通って東北に向かうときに、一行は、関所の兵士から、
追っ手のかかっている義経ではないかと疑われ、
弁慶がその疑念をはらすため、義経を棒で打つシーンは
あまりにも有名です。

義経はその後しばらくの期間、秀衡の元に身を寄せ
平穏を得ていましたが、間もなく庇護者であった
秀衡が死去してしまいます。

秀衡の後を継いだ泰衡(やすひら)は、
頼朝からの度重なる圧力に屈するかたちで、
義経がわずか数十名の供の者と滞在していた館を攻め、
義経は31歳の短い生涯をおえた(1189年)、
というのが、現在では定説となっています。


これに対し、1823年に来日した
ドイツ人医学者シーボルトなどにより、丁寧な検証の結果、

「いや、その時、義経は死んでいない、
義経は、生きて北海道に逃れ、モンゴルにわたり、
その後モンゴル帝国を築きあげたのだ」
という説が
唱えられました。

さて義経が大陸に渡ったとされる説は、
どのようなものなのでしょうか?


源義経はチンギスハンってホント?その実態は?

まず、チンギスハンの築いたモンゴル帝国ですが、
1206年に建国されています。

あなたも歴史の教科書などで、
ご覧になったことがあるかもしれません。

チンギスハンは、それまでモンゴルや中国で
使用されていなかった長弓をつかった戦法をつかい、
モンゴル帝国は、最盛期には東ヨーロッパから中国にいたる、
広大な領土を有する遊牧国家に発展します。

チンギスハンは、その礎を築いた
モンゴル帝国の初代皇帝です(~1227年没)。

一方、チンギスハンの誕生した年はよくわかっていません。

1162年ではないか、とも言われていますが、
定かではありません。

モンゴル帝国は、文字による文化の継承が
ありませんでしたから(口頭伝承のみ)、
何しろ証拠というものがありません。

しかし、1162年辺りということであれば、
義経の生誕したと言われている1159年と、
年代的には極めて近い、ということになってきます。

そして確実にわかっていることは、1190年代に、
チンギスハンという人間が、突然モンゴル中央に出現し、
見る間に勢力を拡大していった、という事実です。

義経が大陸に渡ったとされる説は、
年代的な符号をとりあげて、証拠のひとつとしています。

そして、日本から長弓を持ち込み、それまで
中国やモンゴルで使われていなかった長弓での戦法で、
急速にその勢力を拡大していった、というものです。

それを補強するような伝説は、
他にもいくつか残されています。

つまり、義経が北海道に逃れたとされる時期に、
義経と弁慶らしい人物の伝説が、アイヌ地方に
残されてもいます。

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また、日本では、爵位として<守(かみ)>という言葉を
使いますが、義経は「かみ」→「カーン」になったのでは
ないか?と、シーボルトは考察しています。

語感的には、「かみ」と「カーン」は確かに
似ているところがあります。

日本で、あれほど戦巧者ぶりを示していた義経です。
文献によれば、泰衡の差し向けた軍勢に、
抵抗もせずに、自刃したことになっていますが、
それを決定的な真実だと保証できるものはありません。

一説によれば、そのときの義経の首は、
のちほど頼朝に送られますが、贋物であったとも
言われています。

もし大陸に逃れて立身出世が成功していたとしたら、
そのまま日本渡来の、おのれの素性を隠しつづけて、
日本に戻ろうという気持ちにはなれなかった、という
可能性は大いにあります。

なぜなら、日本にもどれば、また兄と反目
しあうことになるからです。

自分が活躍できる場所は、日本にはもうない
そのため義経が本領を発揮する場所に選んだのは、
無限の可能性が広がる、広大な大陸であった、
と考えることは、何故だか私たちの心を
浮き浮きさせてくれます。

あれほどの活躍をした義経が、
あとで兄にしてやられるのは、あまりにも
かわいそうです。

でも、これまで示してきた証拠を見るかぎり、
私たちの心が浮き立つのは、ただ義経贔屓、
という心理のためばかりではなさそうにも思えますね。

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